1997年に同窓会報に震災の記事を掲載していただきました。 同窓会報では紙面に限りがあるため、かなりの文を割愛しました。もう一度、皆さんに読んでいただきたくて掲載する前の素原稿を掲載します。
震災の話をすると、涙があふれてきます。トラウマなのか、自分にもよくわかりません。ただ、あの災害の時、目の前の肉親を助けられなかった人の無念さは、忘れてはならないと思います。
震災の教訓(備え)
2002年10月 5M 福井 勇
震災から1000日
阪神大震災 1997/10 5M福井 勇 --------------------------------------------------------
(1997年)10月12日で震災から1,000日が過ぎた。街は、外見上「震災などあったの?」と言うような顔を見せ始めた。
しかし、一歩路地に入ると、ひび割れたままの壁、歪んだ道路、点在する更地など、至る所にその痕跡を残している。
仮設住宅暮らしを余儀なくされている方が28,000世帯もあるという。
あの日(1995年1月17日)、悪意という巨大なエネルギーが、まるで人の恐怖心を弄ぶように大地を揺さぶり続けた。続けたというのが適切なように長い時間、揺れが加速度的に激しくなった地震だった。布団から起きあがることも出来なかった。ただ、この家がいつ倒壊するのか?そんな思いだけが鮮明に残っている。初めての体験であり、もう2度と味わいたくない恐怖。
神戸では、あの瓦礫の中で生存者がいたのが、不思議なくらい無惨な建物が至る所にあった。
1月19日播磨から船をチャーターし、当社製品の被害状況を調査すべしと、各製品の担当者が乗り込んだ。
「橋梁関係」「フェリー乗降設備関係」そして「クレーン関係」。長田に上がる煙を遠めに見ながら、現場に向かった。
私は、神戸港に納入したコンテナクレーン(コンテナ専用の岸壁クレーン:大きいもので約850t)の調査を担当した。 ポートアイランド8基、六甲アイランド14基である。遠目には無事に見えたクレーンも、1個1,000tほどもある基礎コンクリートのブロック(ケーソン)と共に移動し、股裂き状態で、脚が折れ曲がるという無残な状態だった。
概要を工場内に報告し、さらに復旧のための詳細な被害状況調査。 1月25日から26日にかけて1泊で現地調査を実施した。
握り飯4食+ペットボトルのお茶2本、防寒着、使い捨てカイロたくさん、カメラ、フイルムをデイパックに詰め、早朝4時出発で橋梁の調査班の車に便乗し現地入り。
クレーン1基を36枚撮りフィルム1本に同じアングルで撮影し、寸法計測するもの、被害状況のメモをするもの、1基1時間かかった。
朝から晩まで陥没した岸壁で足場を探しながら調査を実施した。
その夜は下請けの作業者が、「ガスも水も出ないけど電気はあるし、夜露もしのげるから」と言って一夜の宿を提供してくれた。
布団で寝られる幸せを感じた。その夜強烈な余震で起こされた。ひょっとしてあのクレーンは倒壊してしまったのではと不安が胸をよぎる。翌朝、再度現場へ向かう。道の両脇の住宅について運転していた業者の人が話してくれた。
「この辺は被害がないように見えるでしょう。でもあの鉄筋のアパートの間に木造家屋が建って居たんです。」 ショックだった。
市役所周辺に、中継車を常設し「定点観測」と「視聴率」しか意識のない安直取材を続ける報道陣。「応援」の名のもとに、近郊地域に宿舎をかまえ、通勤にサイレンを鳴らして一般車両を押しのけて疾走する「他府県の警察」。物見遊山で「カメラをぶらさげた」観光客。みんな許せなかった。
仕事の関係から、神戸市港湾局の担当者や、復旧関係者と、震災で損傷を受けたクレーンの復旧について、嫌になるほど打ち合わせた。避難所から通勤されていた係長。毎日片道30kmの道のりを、瓦礫の間を擦り抜けながら、原付バイクで往復通勤されていた市の職員。彼らもまた不眠不休で働いていた。精一杯に。だれが彼らを非難出来よう。ただ仕事の量があまりにも多すぎた。通常の業務でそれなりに仕事があるのに、震災復旧で全く余分な仕事でありながら、最優先する仕事が加算されたのである。
我々も「いいかっこ」ではなく、地元のメーカーとして、一日も早い復旧を行うためにはどうしたらいいか、必死でみんな働いた。日曜日は、倒壊した親の家の片づけをしながら、ほとんど休み無しで通勤した同僚もいた。
神戸市の方が言った。
「走らなくてもいい、とにかく、船がついたら荷役が出来るクレーンが欲しい!このままでは神戸が死ぬ!」と。神戸市の収益は、港湾関連で4割を占めていたと話してくれた。
港の復旧(岸壁の復旧)に、国が乗り出した。
地元の中小の港運業者が死のうが生きようが関係ない、とにかく岸壁さえ直せばいいんだという血の通わない行政が出しゃばった。だから見た目はちゃんと直った。クレーンもほとんどが1年後には稼働しはじめた。
でも、それを使って仕事をするはずの中小企業はもう無くなっていた。
最初のクレーンは3月20日に稼働した。そうあの地下鉄サリン事件のあった日。新聞の1面に復旧記事が掲載されたのは地元紙だけだった。
でも荷物は帰ってこなかった。震災前の8割にしか到達しない。神戸港のコンテナの扱い量はシンガポールに首位の座を明け渡して久しい。その差はますます広がるばかりだ。
行政は「復興宣言」し、実体は衰退の一途。日本の行政のお粗末が濃縮されたような状況が続く。まだ懲りずに、神戸沖空港を建設するという。
国民・市民が生活に困窮している状況で、関西に空港が3カ所も必要なのだろうか?
国民が税金を払って良かったと思える政策が望まれるのではないだろうか。 港を活性化し、効率的な運用をするために法律が邪魔になっている。法規制により、効率的な集荷が出来ず、高い輸送コストを強いられている。結局、アジアの近隣港との「コスト競争力」が低下し、景気の低迷もあり「ハブ港としての神戸」は過去のものとなってしまっている。
一度は神戸に来てみるといい。これからは「観光・神戸」に重点をおいているらしい(としか思いようがない)。
震災の痕跡もまだたくさん残っている。一番の痕跡は、被災者に残る「心の傷跡」ではないだろうか。震災で「人のやさしさ」「人の醜さ」みんな見えたような気がした。
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